正宮でありながらも第2の宮殿に止まった悲運の歴史とは! | |
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太祖・李成桂が高麗時代末の混沌とした情勢を打破し、すべての百姓が太平盛大の幸せな国を作ろうと朝鮮王朝を建国したものの、王宮内でさまざまな権力闘争が絶えず、1592年には、豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦火によって全焼するという悲運にみまわれ、それ以降、歴代の王は景福宮を不吉な場所として考え、273年もの間、再建されないままでした。 |
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その後、1865年(高宗2年)、興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建に着手し、1868年(高宗5年)にようやく創建当時の規模に復元され、同年7月には高宗が昌徳宮(チャンドックン)からこの地に王宮を移しました。 しかし、日本の統治時代に再び建物の大部分が破壊され、勤政殿の前には朝鮮総督府も立てられましたが1996年に総督府を撤去し、本来の姿に戻そうと再建計画が進められています。 | |
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現在の景福宮は、王の即位式や文武百官の朝礼などが行われた雄大で、伝統的な美しさのあふれる勤政殿や迎賓館の役割をした2階建ての壮麗な慶会楼が長い歴史を経て、今なお残されています。 また、春ともなれば敷地内にはレンギョウやツツジなどの花々が咲き乱れ、吉鳥のカササギが飛び、都心とは思えない静けさで時の流れが止まったように感じられます。 |
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光化門(クァンファムン)
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景福宮の正門である光化門は南向きに立っています。東側には建春門、西側には迎秋門、北側には神武門がありますが2重楼閣となっているのはこの正門だけです。さらに3つの入口は中央が王と王妃、東が文官、西が武官の通り道と決められていました。 光化門は全体的に均衡と調和を成し、壮麗な外観を持つ最も優れた闕門(王宮の門)という評価を受けていてます。 | |
勤政殿(クンジョンジョン):国宝第223号
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景福宮の正殿である勤政殿は公式的な儀式を行い、官僚たちの朝礼が行われていた所です。官僚たちは階級によって場所が決められ、その位置を示す「品階石」が残されています。(国宝223号) そして、勤政殿の花崗岩を敷き詰めた庭には道があり、道の真ん中の若干高く広い所は王様が通る道で、その両側の若干低い所は文武官僚が通った道です。 | |
慶会楼(キョンフェル): 国宝第224号
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韓国一規模の楼閣である慶会楼は、国の重要な宴会や外国使臣の接待などが行われた宴会場です。慶会楼という看板の字は国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられました。 慶会楼は、真四角な島を土台に作られ、かつては48本の石柱に龍の彫刻が施されていましたが 文禄・慶長の役で焼失され、現在の建物は高宗4年(1868年)に再建されたものです。 | |
慈慶殿(ジャギョンジョン):宝物第809号
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慈慶殿は、興宣大院君が李朝第24代国王の母親のために立た各々王の母親の寝殿です。慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて煖房できる寝房・福安堂(ブガンダン)と、昼間滞在する中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼(チョンヨンル)で構成されています。 後ろには、十長生(長生不死を象徴する10種の物)煙突と花塀が有名で、朝鮮時代に作られた最も美しい煙突として数えられています。 | |
香遠亭(ヒャンウォンジョン)
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香遠亭は寝殿の裏側に位置する後苑空間で、慶会楼と同じく池を掘って真中に人口島を作り、蓮池の中央に六角屋根の東屋を建てたもので、慶会楼に比べて女性的なのが特徴です。 現在は島の南側に橋が架けられていますがもともとは北側に架けられていたものです。 | |
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朝鮮時代宮城門開閉および守門将交代儀式 |
期間 |
毎年3.1~11.30 |
場所 |
景福宮興礼門、光化門一円 |
宮城門開閉儀式 |
10:00、15:00 |
守門将交代儀式 |
10:00、13:00、15:00 | |
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D/A/T/A |
場所 |
地下鉄3号線 景福宮駅5番出口から徒歩1分 |
電話番号 |
02-732-1931~2 |
開園/館時間 |
3月~10月(平日) 9:00~18:00(入場は17:00まで) (土、日、祝日) 9:00~19:00(入場は18:00まで) 11月~2月(曜日問わず) 9:00~17:00(入場は16:00まで) |
休日 |
毎週火曜日(名節時期を除く) |
入場料 |
*価格はお問い合わせ下さい。 |
日本語無料ガイド |
1日3回(10:00~ / 12:30~ / 15:00~) | | |