朝鮮王朝時代の宮殿・・・景福宮(キョンボックン)
朝鮮王朝(1392-1910)、最初の正宮として立てられ、500年あまりのさまざまな歴史が潜んでいる宮殿景福宮は、朝鮮の創始者である「太祖・李成桂 (在位1392-1398)」が,風水地理によって一番良いとされる漢陽(ソウル)を都と決め、新しい王朝の宮殿として1395年に創建されました。15万坪に達する広い敷地に200棟を超える殿閣がありましたが、豊臣秀吉の文禄・慶長の役、日帝時代、朝鮮戦争などの為多くの殿閣が消失してしまいました。また朝鮮王朝時代の五大宮の一つであり、「万年も輝く大きな福を示す宮殿」との意味で景福宮と名づけられましたが、多くの悲運にみまわれ長い間主を失った宮殿でした。そして、またソウルの北にあることから「北闕」とも呼ばれていました。
正宮でありながらも第2の宮殿に止まった悲運の歴史とは!
景福宮は、すべての人が太平盛大の幸せな国を作ろうと朝鮮王朝を建国した
太祖・李成桂が、国の基盤を整えるために創建した朝鮮王朝初めての宮殿であり、規模も大きく格式の面でも厳格な建築物です。また景福宮は周りに北岳山、仁王山、駱山、南山に囲まれ南には漢江が流れ、風水地理的に、とても良い土地とされこの地に選ばれました。しかし、朝鮮王朝を建国したものの、王宮内ではさまざまな権力闘争が絶えず、また、1592年には、豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦火によって全焼するという悲運にみまわれ、それ以降、歴代の王は景福宮を不吉な場所として考え、273年もの間、再建されないままでした。その後、1865年(高宗2年)に興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建に着手し、1868年(高宗5年)にようやく創建当時の規模に復元され、同年7月には高宗が
昌徳宮(チャンドックン)からこの地に王宮を移しました。しかし、日本の統治時代に再び建物の大部分が破壊され、勤政殿の前には朝鮮総督府も立てられ、光化門も移築されてしまいました。そして、朝鮮戦争の時にも多くの建物も消失してしまいました。
光化門(クァンファムン)
景福宮の正門である
光化門は南向きに立っています。東側には
建春門、西側には
迎秋門、北側には
神武門がありますが2重楼閣となっているのはこの正門だけです。さらに3つの入口は中央が王と王妃、東が文官、西が武官の通り道と決められていました。また、光化門は朝鮮時代の宮殿に設けられた門の中で最もスケールの大きいものとして、その風格は見る人の心を惹きつけます。朝鮮建国の王、太祖時代に建設された光化門は、文禄・慶長の役によって全焼し、また高祖が再建した光化門は、日本帝国時代の総督府庁舎新築に伴い移築、朝鮮戦争の時には楼台が消失など、さまざまな危機を経て1968年コンクリートで復元されました。しかし中心軸が曲がったままの姿で復元されていたので、2006年12月から4年の歳月をかけて2010年8月、光化門本来のすがたを取り戻しました。また光化門は全体的に均衡と調和を成し、壮麗な外観を持つ最も優れた闕門(王宮の門)という評価を受けていてます。
勤政殿(クンジョンジョン):国宝第223号
景福宮の正殿である勤政殿は、文武百官が出席する中で王が朝礼を行ったり、外国の使臣を接見したり、即位、冊封、婚礼などの国の重要な行事を行う所です。王と国の権威や品格を示す重要な空間です。勤政殿の庭には花崗岩を敷き詰めた道があり、道の真ん中の若干高く広い所は王様が通る道で御道と言い、その両側の若干低い所は文武百官が通った道です。官僚たちは階級によって場所が決められ、その位置を示す「品階石」が残されています。(国宝223号)朝鮮時代、王を中心に身分の秩序が厳しかった一面を垣間見る事ができます。
慶会楼(キョンフェル): 国宝第224号
韓国一規模の楼閣である慶会楼は、
国の重要な宴会や外国使臣の接待などが行われた宴会場です。慶会楼という看板の字は国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられました。真四角な島を土台に作られ、かつては48本の石柱に龍の彫刻が施されていましたが 文禄・慶長の役で焼失され、現在の建物は高宗4年(1868年)に再建されたものです。
康寧殿(カンニョンジョン)
国王が生活する内殿の中心となる建物で王の寝室として使われていた。
勤政殿では公式的な行事が行われたのに対して、康寧殿は王の私的空間な場所である。
屋根棟は無い。小鳥が止まって「王を起さないようにした」との言い伝えがある。
交泰殿(キョテジョン)
康寧殿のすぐ後ろにあった
王妃の寝室で中宮殿の建物。
王妃の住まいであったため、景福宮の中で最も華麗に飾られ、表は両儀門(ヤンウィムン)で康寧殿と通じ、 裏には人工庭園である峨嵋山(アミサン)が広がっている。
慈慶殿(ジャギョンジョン):宝物第809号
慈慶殿は、興宣大院君が李朝第
24代国王の母親のために立た各々王の母親の寝殿です。慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて煖房できる寝房・福安堂(ブガンダン)と、昼間滞在する中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼(チョンヨンル)で構成されています。
後ろには、十長生(長生不死を象徴する10種の物)煙突と花塀が有名で、朝鮮時代に作られた最も美しい煙突として数えられています。
香遠亭(ヒャンウォンジョン)
香遠亭は寝殿の裏側に位置する
後苑空間で、慶会楼と同じく池を掘って真中に人口島を作り、蓮池の中央に六角屋根の東屋を建てたもので、慶会楼に比べて女性的なのが特徴です。
現在は島の南側に橋が架けられていますがもともとは北側に架けられていたものです。
昔の姿を感じさせてくれる守門将交代儀式
朝鮮時代守門将は、都を守る城郭にある門や景福宮などの国王が生活する王宮の門を守る責任者でした。厳格な手順によって守門将は勤務を交代することによって王室や国家を守っていました。そんな
守門将交代儀式を景福宮では、忠実に再現したのをみる事ができます。まず、大太鼓の合図でラッパ、チャルメラ、太鼓、シンバル、鐘を持った音楽隊が入場して来ます。その演奏に合わせて守門将たちも入場行進し一旦整列します。その後、再び太鼓、ラッパの音を合図に各自担当の位置に行進して行きます。再度、太鼓、ラッパの合図で今まで警備していた守門将たちが戻って行き、それで儀式は終了です。この守門将交代儀式は景福宮の休館日の火曜日を除く日の10時から15時までの間、1時間おきに行われています。但し、
雨天時には休演になるので気をつけてくださいね。
景福宮は宮殿だけではありません!博物館も充実!
景福宮の中には、
国立民族博物館と
国立古宮博物館があります。まず国立民族博物館は、韓国の古代先史時代から三国時代、朝鮮時代にあった文化・文明が、テーマ別に細かく復元していて、中には三国の王室衣装や、世界最古の木管印刷の道具が展示されていたり、細かい部分まで手が込んだ人形や模型で復元されていて、庶民の生活風景や都の風景が、活き活きと表現されています。 特にキムチを付ける人形の風景は、その昔ながらの製造過程に高い興味がわきます。また国立古宮博物館では、朝鮮王朝のさまざまな制度や生活がよくわかる宮中遺物はを展示しており民族の貴重な文化遺産となっています。ここで保管されている朝鮮王室の歴史と文化にかかわる文化財はなんと4万点余りに上ります。ここにでは
朝鮮王室の歴史と文化を学ぶことができます。
デジタルガイドを利用してより分かり易く・・・
景福宮では
デジタルガイドの機械を借りることができます。日本語案内ガイドの時間に間に合わなかったり、また人が多過ぎて聞き取れないときなどはデジタルガイドを利用するのを、お勧めします。このデジタルガイドは景福宮の殿閣ごとのストーリーを
映像と音声で自動案内してくれるシステムです。借りる場所は光化門を入って右のほうに向かうと景福宮の入場券売場があります。その横にある建物でデジタルガイド機がかりられます。
大人は3000ウォン、
青少年は2000ウォンなっています。ぜひ、景福宮を訪れたときには利用してみてください。