王朝時代の遺跡.慶煕宮(キョンヒグン)
最も栄えていたときは100もの宮殿をかかえる昌慶宮、昌徳宮に並ぶ巨大宮廷1620
年
に完工され、景福宮(キョンボックン)が再建されるまで昌徳宮(チャンドングン)と共に2
80年余りの間、朝鮮王朝の正宮としての役割を果たしてきました。
朝鮮時代後期には離宮(有事の際に王が避難した所)としてソウル西側に位置し、東の
昌徳宮に対し、西宮と呼ばれる慶熙宮(キョンヒグン)は、朝鮮時代の仁祖から哲宗に
及ぶ10代の王が居住していた所です。
慶煕宮(キョンヒグン)
慶煕宮(キョンヒグン)は、低い山の傾斜の地形を利用して建てられ、伝統美と歴史的由緒を誇る宮廷です。
当時は徳寿宮とつながる歩道橋があり、政殿である崇政殿をはじめ資政殿、寝殿である隆福殿、会祥殿など約100棟に及ぶ大小の建物がありました。
純祖29年(2839)に火事で大部分が焼失し、1831年に再建されましが、日本の植民地時代に王宮の建物はなくなり、 その場所に1908年、日本人学校である京城中学校が建てられたため、ほとんどの宮廷が壊され移転したという経緯があります。現在の慶熙宮の正門である興化門は新羅ホテルの正門として使用され、崇政門は東国大学にありますが、1987年に学校が移転した後、崇政殿などの建物は復元作業が行われ現在の姿となっています。
崇政殿(スンジョンジョン)
慶煕宮の正殿であり、李氏朝鮮第15代王、光海君(クァンヘグン)10年(1618年)頃に建てられ、国王と臣下の朝会、宮中での宴会、使臣の接待など国家的な公式行事が行われた場所です。
とくに歴代王の中3人(第20、22、24代王)の王の即位式もここで行われました。1926年には日本の宗派である曹渓寺が買取り法堂に改造したりしましたが、1985年から行われた発掘調査をもとに、約6年の月日をかけて現在の姿に復元されました。
興化門(フンファムン・ソウル特別市有形文化財第19号)
慶煕宮の正門。1932年に現在の救世軍ビルのある位置から移築され、植民地時代には大韓帝国統監府の初代統監である伊藤博文をを祭った博文寺(現在のホテル新羅の位置)の正門として使用されていました。
1988年から始まった慶煕宮復元事業により現在の場所に移転しました。
資政殿(チャジョンジョン)
慶煕宮の便殿であり、朝鮮王朝第15代王、光海君(クァンヘグン)9~12年(1617~1620年)の間に建てられ、国王が臣下と会議をしたり、講義を聞くなど日常的な業務が行われた場所です。
1908年取り壊されましたが、その後ソウル市の慶煕宮復元事業によって現在の姿になりました。
泰寧殿(テニョンジョン)
朝鮮第21代王、英祖(ヨンジョ)の肖像画を安置した場所。 本来は特別に、用途が決まっていない建物でしたが英祖20年(1744年)、英祖の肖像画を安置したということです。
ここも取り壊されていましたが、正面5間、側面2間という現在の姿に復元されました。
瑞巌(ソオン)
泰寧殿の後ろにある奇妙なかたちの岩。
岩のなかには巌泉という泉があったことで有名な場所。もともとは王巌といわれたため、光海君がここに慶煕宮を建てたとも言われます。李氏朝鮮代19代王、粛宗34年(1708年)に名称を瑞巌に変更し、自ら「瑞巌」の二文字を書き、彫りこんだものの現在は、瑞巌の文字を彫りこんだ四方石は伝わっていません。
錦川端(グンチョンギョ)
慶煕宮の正門と宮殿の間に流れる禁川(グンギョ)にかけられた橋です。宮廷外の邪気が宮廷内に入って来れないよう象徴的な意味をこめ、橋の横には鬼神の像を彫りこまれました。
光海君(クァンヘグン)11年(1619年)に建てられたが、植民地時代に埋められ、2001年復元されました。