モンゴルの侵入を防ぐ為に建てられた甲串墩台
甲串墩台(カッコットンデ)は高麗が、モンゴルの侵入によって1232年から1270年まで都を江華島に移したとき、モンゴルとの戦争で江華海峡を守った重要な要塞で、大砲8門が配置された砲台でした。そして朝鮮1644年、江華島の要衝地ごとに軍隊駐屯地を設置するときに済物鎮(チェムルジン)に所属する墩台として1679年に完成されました。また、丙寅洋擾(1866)の際フランス軍が攻撃をしてきた所で、極東艦隊ローズが600人の兵力を率いて江華城、文殊山城などを占領したとき最初に上陸した所で、その後フランス軍が鼎足山城の戦いで梁憲洙将軍の部隊に負けて退いた場所です。1977年遺跡に改めて昔の姿を蘇らせる補修復元がなされ、元の姿を取り戻しています。また、墩台の中に展示された大砲は朝鮮時代のもので、海を通して侵入する外敵の船舶を砲撃したものです。
江華海峡を望む場所に位置
甲串墩台は江華島の東に位置する
江華島の砲台のひとつで、江華島にある砲台としては、江華海峡を望む沿岸の南から
草芝鎮・
徳津鎮・
広城堡と続き一番北にあるのが甲串墩台です。甲串墩台には、ソウルから
地下鉄2号線、新村駅から出ている3000番のバスに乗り、
江華バスターミナルで88番バスに乗り換えれば辿り着きます。また、甲串墩台のある江華島は韓国で5番目に大きな島で、面積は約408km²、人口は約7万387人ほどです。ソウルを流れている漢江の河口にあり、ソウルから北西に50Kmのところに位置しています。島の北側は北朝鮮の黄海北道と面しており、その海岸線には
展望台があり、そこから
北朝鮮を望むことができます。また江華島の南側には、広大な干潟が広がっていて、ここで育っ
たうなぎが有名です。
碑石群
碑石群は、朝鮮時代の官僚の業績を称える
不忘碑、
善政碑及び自然保護の一環で建てた
禁標(立ち入り禁止の標)、三忠臣を称える
三忠史跡碑など全部で67基が集まっています。自然保護の一環である禁標は粛宗29年(1703)江華留守府(高麗宮址)等の土地へ建てた物に、“家畜を野放しした者は笞刑(罪人の尻を叩く刑)100回、灰やごみを捨てる者は笞刑80回を叩く”と言う警告文が記されています。また、三忠史跡碑は仁祖14年(1636)清の国の軍士が朝鮮に侵入し、江華島を攻略しようと月串鎮で力戦奮闘したが、壮烈に戦死していった
三忠臣、
姜興業(カンフンオプ)・
具元一(クウォンイル)・
黄善身(ファンソンシン)を称えるために建てた碑石で、護国精神の魂がこもった重要な歴史的資料となっています。
甲串里のからたちの木
江華島にからたちを植えるようになった理由は、外敵の侵入を防ぐ鉄条網と同じ役割をする棘があるため城壁の下にたくさん植えられたのです。このからたちは韓国人の先祖が、外敵の侵入に備えて植えた国土防衛の遺物として歴史性を持っています。また、からたちが育つことができる北限である江華島にあることから、天然記念物に指定され保護されています。甲串里のからたちの木の樹齢は約400年と推定され、木の大きさは、高さ4m、幹の周りは1mにもなります。
金属活字中興碑
江華島は、
世界で最初に金属活字を開発した所として知られています。その後、金属活字が中国、アラビア、ドイツなど世界にまで広がって行ったので、江華島は
金属活字印刷術を中興発展させた故郷と言えます。その高麗人の優秀性と科学性を広く知らせる為に金属活字中興碑は建てられました。
利渉亭(イソプジョン)
利渉亭は太祖7年(1398)江華府使、李晟(イソン)によって建てられました。そして長い時間が経ち、崩れて無くなっていたものを、1976年江華国防遺跡復元浄化事業の一環として再び建てられました。甲串墩台の中に八角の二層の亭子を建て「利渉亭」と書いた額を掛けました。
紅夷砲(ホンイポ)と仏狼機(プルランキ)
紅夷砲は朝鮮後期に韓国の軍隊で使用した大砲のひとつです。ヨーロッパ人たちが使用したのを火砲と言い
、“赤い侵略者の火砲”すなわち紅夷砲と呼び、
明(中国)から伝わったものとして知られています。砲の長さはおよそ2.5m、穴の直径はおよそ10cm、重さは3トンとなっています。紅夷砲は700mの距離にある目標物に合わすことができるだけの性能を持っています。