激動の時代を生きた明成皇后生家・記念館
朝鮮末期、激動の時代を生き、そして殺害された閔妃(ミンビ)は、李氏朝鮮王朝の第26代王、そして韓国で初めての皇帝となった高宗(コジョン)の妃です。高宗の父、興宣大院君(フンセンテウォングン)が親戚の娘である閔妃を選び、王妃にしたのでした。高宗は、あまり政治に関心がなかったので閔妃は国王の正室として強い権力を持ちました。しかし、縁故主義と汚職、そして義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局を混乱させました。乙未事変で暗殺されたのですが、日本人が暗殺したという見解と、興宣大院君の企みによって暗殺されたという見解の、ふたつがありますが、真実は未だに、はっきりとは明かされてはいません。
陶磁器の街、、驪州に位置する明成皇后生家・記念館
明成皇后(ミンソンファンフ)の生家は、ソウルから南東60kmの所に位置している驪州(ヨジュ)にあります。驪州には、ハングルを作ったことで有名な世宗大王(セジョンデワン)と孝宗の王陵、
英陵・寧陵や
驪州プレミアムアウトレットがあります。また、驪州は高麗時代(918~1392)初期から陶磁器が製造されていた場所であり、陶磁器の生産に必要な高嶺土や白土などの質のよい土が多いため、早くから陶磁器工業が発達しました。そんな驪州にある明成皇后の生家は、明成皇后が生まれてから8歳まで過ごした家で、元々は粛宗(スッジョン)の義父であり仁顕王后の父親である閔維重の墓所を管理するための墓幕として1687年に建立されました。建築当時のまま残っていたのは母屋だけだったのですが、1995年に
舎廊棟(男主人の生活場所)、
行廊棟(使用人の生活場所)、
別堂(女主人または娘の生活場所)が復元されました。
第26代王・高宗の后 明成皇后・閔妃
明成皇后とは乙未事変で暗殺された閔妃の死後に付けられた名前です。閔妃は1851年京畿道驪州郡で生まれ、15歳の時に
第26代王、高宗の后となりました。高宗の実父である
興宣大院君の夫人閔氏の推挙で王宮に入ったのですが、高宗に宮女の李尚宮との間に長子である完和君ができると、祖父の興宣大院君は喜びし、完和君を王世子にしようとしました。閔妃も急いで自身の子を出産し、その子(
純宗)を王世子とするため、宗主国である清に賄賂を贈り、自身の子を嫡子として承認してもらいました。世継ぎ問題など、興宣大院君と権力争いをしていた閔妃は、高宗が成人し親政をとるようになると、興宣大院君とその腹心の部下たちを失脚させ、そして自分の一族を高官に取り立て、政治の実権を握りました。その後興宣大院君は、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなったのです。興宣大院君が失脚した当初、閔妃は開国政策をとり、日本と日朝修好条規を締結するなど積極的な開化政策を行い、日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手しましたが、従来の軍隊が放置され、また賃金未払い問題なども発生し、新式軍隊に対する不満が溜まっていきました。そこに開化政策に不満を持つ興宣大院君等の勢力が合わさり、1882年、朝鮮の旧式軍隊が閔妃暗殺を目論んだ
壬午事変が起こりました。その時、いち早く事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りに仕立て王宮を脱出し、当時朝鮮国内に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱しました。このクーデターを指揮していたとして、興宣大院君は清に幽閉され、閔妃は親日政策から、次第に清国に頼る路線に変更していきました。そのような状況を見た開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして1884年12月、甲申政変を起こし、それにより一時期政権を奪われますが、袁世凱率いる清軍の力を使って再び政権を取り戻し、1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめます。1894年に甲午農民戦争が起きると清軍と日本軍の介入を招き、
日清戦争の原因と戦場になってしまいました。日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は衰退していきます。そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功します。閔妃の政策は興宣大院君への怨念ともいえる姿勢で貫かれており、これらが原因で興宣大院君に代表される反対派勢力による反感を買うことになります。閔妃の動きは閔妃に不満を持つ興宣大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、1895年10月8日早朝、景福宮に侵入した武装組織によって暗殺されたのが
乙未事変です。この事件は朝鮮が親露に傾くことを「東洋の危機であり、日本の危機」であるとして考えた朝鮮公使の三浦梧楼らが主導し李周會や禹範善などの朝鮮人らも参加して発生したクーデターであるとされています。一方で、閔妃と対立していた興宣大院君が主導していたとする説も根強く、閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していたため、朝鮮人は自ら積極的に参加したとも言われています。
5つのブロックに分かれた空間
明成皇后生家は5つのブロックに分かれています。記念館、生家、文芸館、民家の町、感古堂となっています。
明成皇后生家の向かい側にある
明成皇后記念館ではマジックビジョンを始めとし、明成皇后御札などの関連資料、写真などが数多く展示されています。
作成日 2011,10,31